朱全忠朱元璋下一个皇帝帝是谁人

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朱 全忠(しゅ ぜんちゅう)は、の初代。廟号は太祖。
諱は初め温であったがの乱の際の功で朝より全忠の名が下賜され、さらに皇帝即位後に晃と改めた。
6年()にの牛溝里に田舎であったとも伝えられる(朱五経と称された)の三男として生まれる。家は貧しく、少年時代に父を失ったため、2人の兄と共に母の王氏に連れられに当たるの富豪のの家で、いわゆる畑仕事や家畜の世話をやっていた。だが農耕を嫌った朱温は学問と武芸に励んだ。畑仕事などは平凡で退屈な仕事と頭から馬鹿にして少しも精を出さず、長じて気性も荒くなったため、里人の多くは彼を嫌い、度々主人の劉崇から杖や鞭で咎めを受けていた。朱温は特に武術に興味を示し、独学で棒術や拳法を覚えて腕をあげていき、たちまち暴れん坊になったため「ごろつき朱三」(朱家の三男の意)と呼ばれたという。劉崇はそんな朱温を嫌ったが、劉崇の母だけは「朱三は只者ではない。お前達、あの子によくしておやりよ」と言って高く評価し、常に朱温をかばったという。
黄巣の乱が勃発すると、次兄の朱存と共にその家から出奔して、参加し頭角を現した(朱存はその中途で戦死したといわれる)。元年()に黄巣軍がを落とした後、であったを投降させる。
その後東南方面の先鋒を任され、南陽を攻め落とすなど軍功を立てていったが、の節度使であった率いる数万の軍に何度も敗れたため、黄巣に救援を求めたが、左軍使のによって要請を握り潰された。また兵士の内に黄巣軍の形勢が悪い風聞が流れたため、朱温は側近たちと語らい、黄巣から派遣された監軍使のを斬り、王重栄に投降した。これを聞いた時の皇帝は「是天賜予也」と喜んだといわれる。
その後朱温は官軍側として黄巣軍を諸侯軍とともに長安から追い落とした。この戦功で、朝廷から左金吾衛大将軍、河中行営副招討使の地位を与えられ、皇帝に忠誠を誓う意味である「全忠」の名前を賜った。これ以降、朱温は朱全忠と呼ばれるようになる。
に昇進した朱全忠は、黄巣に対し共に戦ったと朝廷内部での主導権を巡って争った。軍略では李克用に遅れをとる朱全忠だが、政略や謀略では李克用に勝った。また李克用が武略一辺倒だった事も両者が対立した一因となった。最初、朱全忠は李克用に礼を尽くし、黄巣の乱で黄巣軍に押されて支えきれなくなった際、李克用に救われた恩義があったため、朱全忠は李克用のために盛大な宴を開いてへりくだって応待した。しかし一本気な李克用は朱全忠の存在が頭から気に食わず、この丁重な応対もかえっていやらしく見えたという。朱全忠が救援してくれた事に丁重な礼を述べても、李克用は「朝廷のために賊を討っただけであり、貴殿に礼を言われる覚えはない。それに黄巣は貴殿の元の君主。さぞや戦いにくいでしょうな」と憎まれ口を叩いたという。だが朱全忠は怒りを抑えて作り笑いを浮かべながら李克用を手厚くもてなした。そして李克用と部下らが酩酊したのを見計らって自軍の兵を率いて李克用を襲撃した。酩酊していた李克用は部下に水をかけられて目を覚ますと直ちに応戦し、折からの大雷雨も幸いして朱全忠軍の包囲を破って城外に逃げ延び、ここに朱全忠と李克用は不倶戴天の仇敵同士として争う事になった。
武略一辺倒の李克用は朱全忠の政略と謀略の前に次第に押さえられていった。抗争に勝利した朱全忠は朝廷の実権を掌握するに至った。しかし、この頃の唐は長安一帯を保持するだけの地方政権に過ぎなくなっており、各地にはかつての節度使らがとなって割拠していた。
元年()1月、朱全忠はに圧力をかけて遷都を行ない、都を自分の拠点であるに遷した。そして8月に昭宗を殺害し、その九男である13歳のを帝位に即け、の準備を整えた。帝位を窺う朱全忠を、長兄のは「朱三よ、おまえが天子になろうとは何たることか。元をただせば黄巣の一味のおまえを引き立てて下さった天子様の恩に報いるどころか、三百年の社稷を簒うとはこの愚か者め」と罵倒した。
天祐2年()には腹心の?らの進言によって唐の高官らをへ沈めるべきとの建言を受け、興味を示した朱全忠は実行に移した。こうして、唐の高官であった????ら30余人を自分の根拠地である河南の県尉などの下級地方官に一斉に左遷して、任地に向かわせる途中の白馬駅でし、その遺体を黄河に放棄したと伝えられる。この事件をもって中国における制は完全に崩壊したと考えられている。
天祐4年()3月、哀帝から禅譲を受けた朱全忠は国号を「梁」と定め新しい王朝を開いた。忠誠を誓う対象がいなくなった朱全忠は朱晃と改名した。山東の王に降格された哀帝李柷は2年()にで朱晃によって毒殺された。
即位して太祖となった朱晃は李克用と徹底して対立した。2年()に李克用が死去すると、その混乱をついて(現在の)を攻めたが、李克用の跡を継いだに敗れて後梁軍は壊滅した。以後、後梁軍は李存勗の晋軍の攻勢の前に次第に押されるようになる。
また太祖は生来から女性関係に節度が乏しい好色家で見境の無い乱淫を繰り返した。ちょうどこの頃に賢婦人と称された張皇后が死去した事も影響し、太祖の好色はさらに見境が無くなり、各地に封じていた諸子の王の夫人を都に残させて自らの近くに侍らせ、通じるようになった。特に自分の仮子()である博王の妻王氏は美人だったので太祖の寵愛も深く、彼女と関係を持っていた。
だが淫乱が過ぎたためか、晩年の太祖は病気がちになりだした。
2年()、病が重くなった太祖は王氏との関係から諸子の中で最も愛していた朱友文を召し寄せてにしようと画策する。しかし太祖の三男の郢王の夫人の張氏がこれを知って朱友珪に告げた。もともと朱友珪は太祖に素行が悪いために冷遇されており、さらに朱友文への偏愛にも不満を抱いていた上、朱友文とも不仲だった。太祖は後継体制を確実なものにするため、朱友珪を刺史として左遷し中央から遠ざけた。
太祖は左遷した人物の大半を当時は殺害していたため、朱友珪は自らの将来に不安を覚えた。また左竜虎軍(近衛軍)も太祖の家臣に対する暴虐に不満を抱いていたので、朱友珪は彼らと結託して手勢500名を率いて宮中に押し入った。重病に倒れていた太祖は看病を受けていたが、この反乱で全員が逃走してしまい、事情のわからない太祖は「反乱を起こしたのは誰だ?」と訊いた。すると、朱友珪が出てきた。これを見た朱全忠は「わしは早く貴様を殺しておくべきだった。残念だ」と述べて観念した。太祖は朱友珪に腹を刺されて殺され、帝位を奪われた。享年61。
名の表記は『』による。
均王(末帝)
康王(朱友孜)
博王(康勤)
冀王(李簡)
左龍虎統軍 (李彦威)
(李七郎)
駒田『新十八史略5』、P243
駒田『新十八史略5』、P244
駒田『新十八史略5』、P245
駒田『新十八史略5』、P246
駒田『新十八史略5』、P247
駒田『新十八史略5』、P248
駒田『新十八史略5』、P249
駒田『新十八史略5』、P250
駒田『新十八史略5』、P251
ほか『新十八史略5』(新社、)
『夕陽の梨 五代英雄伝』0-新编五代史平话-宋-佚名
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> 0-新编五代史平话-宋-佚名新编五代史平话 (宋)佚名 撰
  梁史平话 卷上
  唐史平话 卷上
  唐史平话 卷下
  晋史平话 卷上
  晋史平话 卷下
  汉史平话 卷上
  周史平话 卷上
  周史平话 卷下
  梁史平话 卷上
  诗曰:
    龙争虎战几春秋,五代梁唐晋汉周。
    兴废风灯明灭里,易君变国若传邮。
  粤自鸿荒既判,风气始开。伏羲画八卦而文籍生,黄帝垂衣裳而天下治。作十三卦以前,民用便有个弦木为弧,剡木为矢,做着那弓箭,威服乖争。那时诸侯皆已顺从,独蚩尤共着炎帝侵暴诸侯,不服王化。黄帝乃帅诸侯,兴兵动众,驱着那熊、罴、貔、貅、、虎猛兽做先锋,与炎帝战于阪泉之野,与蚩尤战于涿鹿之地,斗经三合,不见输赢。有那老的名做风后,乃握机制胜,做着阵图来献黄帝。黄帝乃依阵布军,遂杀死炎帝,活捉蚩尤,万国平定。这黄帝做着个厮杀的头脑,教天下后世习用干戈。
    此后虞舜征伐三苗,在两阶田地里舞着干羽,过了七十个日头,有苗归服。如汤伐桀,武王伐纣,皆是以臣s君,篡夺了夏、殷的天下。汤、武不合做了这个样子。后来周室衰微,诸侯强大,春秋之世,二百四十二年之间,臣s其君的也有,子s其父的也有。孔子圣人,为见三纲沦,九法荆侵北剩鲆痪硎榛阶觥洞呵铩罚彼频模岱K竦摹9拭献拥朗牵骸缚鬃幼鳌洞呵铩罚煜侣页荚糇泳濉!怪挥泻焊咦妫樟踝旨荆∏厥蓟侍煜拢挥么s之谋,真个是:
    手拿三尺龙泉剑,夺却中原四百州。
  刘季杀了项羽,立着国号曰汉。只因疑忌功臣,如韩王信、彭越、陈g之徒,皆不免族灭诛夷。这三个功臣,抱屈衔冤,诉于天帝。天帝可怜见三功臣无辜被戮,令他每三个托生做三个豪杰出来:韩信去曹家托生,做着个曹操;彭越去孙家托生,做着个孙权;陈g去那宗室家托生,做着个刘备。这三个分了他的天下:曹操篡夺献帝的,立国号曰「魏」;刘先主图兴复汉室,立国号曰「蜀」;孙权自兴兵荆州,立国号曰「吴」。三国各有史,道是《三国志》是也。
  从这曹操开端篡汉,在后司马懿也学他这局段,篡了魏,隋杨坚篡了周。炀帝s了父亲,淫了父妾,自立为帝,荒淫无度;靠他混一天下,张着锦帆,造着迷楼,一向与妃子游荡忘返,便饥馑荐臻,盗贼蜂起,都不顾着。邵康节有诗道是:
    蝼蚁人民贪土地,沙泥金帛悦姬姜。
  炀帝恁地荒淫无道,那唐公李渊起兵入长安,向地名江都将炀帝杀了,立他代王名侑的做皇帝,寻受隋禅,革命为「唐」。秦王名世民的,将那哥哥太子建成杀了,传位为皇帝,号做太宗。自登极后,从魏证之谏,用房玄龄、杜如晦做宰相,用李靖、尉迟敬德做将帅。正观年间,米斗三钱,外户不闭,马牛孳畜,遍满原野,行旅出数千里之外,不要赉带粮草。蛮夷君长,各各带刀宿卫,系颈阙庭。一年之间,天下死刑只有二十九人。当时恁地太平!
  太宗皇帝一日宣唤袁天纲入司天台观觑天文,推测世运。袁天纲在司天台无事,把那世数推验,做一个图谶。正在推算,忽太宗到来,唬得袁天纲疾忙起来,起居圣驾。太宗待觑他算个甚么文字,袁天纲进前将太宗背推住,叫:「陛下!不要看觑!」便口占一诗道:
    茫茫天运此中求,世代兴亡不自由。
    万万千千说不尽,何如推背去来休!
  袁天纲道:「天地万物,莫能逃乎数。天地有时倾陷,日月有时晦蚀。国祚之所以长短,盗贼之所以生发,皆有一个定的数在其间,终是躲避不过。」那谶上分明写出两句来。道个甚的?
    非青非白非红赤,川田十八无人耕。
  且说袁天纲这两句是一个字谜:非青非白非红非赤,莫是个黄的色,这是「黄」字分晓;川田十八,这是个「巢」字分晓。只因袁天纲写下了这两句谶了,钡酱筇频谝皇?的皇帝,唤做僖宗皇帝,小名做儇,在后改名做俨,是懿宗皇帝的第五个儿子,初封普王。咸通十四年七月,懿宗崩,有左右神策护军中尉刘行深、韩文约两个,策立普王即皇帝位,大赦天下,改年号做干符元年。是时僖宗年才十二岁。自僖宗登极后,关东连年旱干,田禾不熟,百姓饥饿,流徙四散。尝有翰林学士卢携上表,表文曰:
    臣闻国家之有百姓,如草木之有根柢,若秋冬培溉其本根,则春夏枝叶荣茂。切见
  关东境内,连年旱灾,禾稼无可割刈,所至饥荒,人无依倚,待尽沟壑。朝廷虽加存恤
  蠲免,余税实无可征。而州县文移督趣甚急,动加捶挞。虽撤屋伐木,雇妻鬻子,仅可
  供给催租吏卒酒食之费。朝廷倘无实惠抚存,百姓委实生受。乞敕州县,凡有民间一切
  逋负租税,尽与住征;仍开发义仓,亟加赈给。庶人蒙实惠,如解倒悬。臣愚,昧死谨
  言,伏候睿旨!臣卢携表上。
  僖宗方在幼冲,纵有忠臣直谏,怎生省得?只靠那丞相路岩,排行唤做路十的,处置军国大事。奈缘路十蒙蔽圣聪,向僖宗跟前只奏道:「四境无虞,兵戈顿息,四时顺序,禾稼丰登。」却嫌着卢翰林进那一表,奏道:「卢携妄奏灾旱,荧惑圣听,合该赐死。」使那宣使矫诏去赐卢携死。密令差去的人员,剔取他结喉三寸以进,验他死的虚实。朝廷行着这般政令,无一人敢奏事进言。
  到那十一月,有那秀才王仙芝,是那郓州人氏,同着那濮州秀才尚君长、齐州王[、维州楚彦威、淄州蔡温玉,因就试长安,试官只取势家子弟应选,这几个秀才皆是寒族,怨望朝廷。为见蝗虫为灾,天下饥馑,遂结谋聚众,在那郓、曹、濮三州反叛,在那地名长垣下了硬寨。真个是:
    不向长安看花去,且来落草做英雄。
  王仙芝倡乱之后,远近从乱的都来相附为盗,剽掠州县。盖是世之盛衰有时,天之兴废有数,若是太平时节,天生几个好人出来扶持世界;若要祸乱时节,天生几个歹人出来搅乱乾坤。
  且说曹州冤朐县,有个富人黄宗旦,家产数万,贩盐为生,喜聚集恶少。是那懿宗皇帝咸通元年上,黄宗旦妻怀胎,一十四个月不产。一日,生下一物,似肉球相似,中间却是一个紫罗复裹得一个孩儿,忽见屋中霞光灿烂。宗旦向妻道:「此是不祥的物事!」将这肉球使人携去僻静无人田地抛弃了。归来不到天明,这个孩儿又在门外啼叫。宗旦向妻子道:「此物不祥,害之恐惹灾祸。」遣伴当每送放旷野,名做青草村,将这孩儿要顿放鸟鸢巢内,便是下来,他怎生更活!过个七个日头,黄宗旦因行从青草村过,但听得鸟鸢巢里孩儿叫道:「爷爷!你存活咱每,他日厚报恩德!」宗旦使人上到巢里,取将孩儿下来,抱归家里看养,因此命名做黄巢。黄宗旦又向妻子说了孩儿啼叫的事一遍。其妻道:「这个孩儿真个作怪!若不兴吾宗,定是灭吾族。莫若傍今杀了,斩草除根,萌芽不发;斩草若不除根,春至萌芽再发。」黄宗旦道:「天要坏我家门,杀了这孩儿是逆天道。且养活教长成,看他又作么生。」不觉年至十四五岁,身长七尺,眼有三角,鬓毛尽赤,颔牙无缝;左臂上天生肉腾蛇一条,右臂上天生肉随球一个。背上分明排着八卦文,胸前依稀生着七星d。自小学习文章,博览经史。性好舞剑,会把剑向空掷去,一剑须杀一人;又会走马放箭,每发一箭,不差毫厘。轻财好义。一日,有一道士过门,将一口剑送与黄巢,称道:「上天赐与黄巢。」道罢,不见道士去向。黄巢得这一口剑,号做「桑门剑」。子细觑时,剑上有「混唐」二字。干符二年,朝廷降诏兴贤。黄巢一见,心中大喜,这是男儿立功名之时。真是:
    降下一封天子诏,惹起四海状元心。
  黄巢一日辞了爷娘,选下了日,直往大国长安赴选。黄巢登程后,免不得饥餐渴饮,夜宿晓行。来到长安,讨一个店舍歇泊。明日到试院前打探试日分,到试场左侧,已知得日分了。归歇泊处来,等候得赴试日已至,同士子入试场,把十年灯窗下勤苦的工夫尽力一战。试罢,出试院等候开榜。等至三日,更无消息。黄巢意中惊疑,未免且去探榜。行得数步,探听得试院开榜了,却是别人做了状元,别人做了榜眼,别人做了探花郎。黄巢见金榜无名,闷闷不已,拈笔写着四句:
    拈起笔来书个字,多应门里又安心。
    囊箧枵然途路远,j皇何日返家门?
  黄巢因下第了,点检行囊,没十日都使尽,又不会做甚经纪,所谓:床头黄金尽,壮士无颜色。那时分又是秋来天气,黄巢愁闷中未免题了一首诗。道是:
    柄柄芰荷枯,叶叶梧桐坠。
    细雨洒霏微,催促寒天气。
    蛩吟败草根,雁落平沙地。
    不是路途人,怎知这滋味!
  题了这诗后,则见一阵价起的是秋风,一阵价下的是秋雨,望家乡又在数千里之外,身下没些个盘缠。名既不成,利又不遂,也只是收拾起些个盘费,离了长安,待前途□打听□□,意下谒那贤豪,讨些津发,奔归乡里。行了数十日,来到宋州砀山县,小地名午沟里。打听得那里有一个朱教授,小名唤做朱诚,在乡里开设学馆,将五经教导百十个徒弟,一乡都叫他做朱五经,做了那小学的师父。黄巢思量:「咱每今番下了第,是咱的学问短浅。明日写着榜子,做着一首诗,去见那朱五经,问他学习些个。」那诗道:
    百步穿杨箭羽疏,踌躇难返旧山居。
    鲰生欲立师门雪,乞授黄公一卷书。
  朱五经看了这诗道:「秀才,您每下第不归故乡,小生惯诵经史,教导乡里徒弟,无过是教他学习个孝弟忠信的道理,识认得个三纲五常。如门下高作末句,愿学黄石公兵法,觇贤丈志气不凡,非小生所敢与闻。」黄巢道:「小生意下不是恁地说。为见而今世界不是修文时节,小生赴选长安,取的三名,不是权势子弟,则是豪富儿郎。咱每寒酸贫儒,纵有行如颜、冉,文如班、马,也不中选。看来只好学取长枪大剑,乘时作乱,较是活计。咱每贫儒,处这乱世,饥来有字不堪餐,冻后有书怎耐冷?便如师父平日无书不读,直是皓首一经,也不得一名半职,便在乡里教着徒弟,也济得甚事?」朱五经道:「分明是如贤所教,但是小生自小兀坐书斋,不谙其它生活,只得把这教学糊口度日,为之奈何?」
  朱五经有三个的儿子:第一的名做全昱,第二的名做存,第三的名做温。各自小年不肯学习经书,专事游手好闲,平常间吃粗酒,使大棒,交游的是豪侠强徒,说话的是反叛歹事。在屏风后倒卧,忽听得黄巢向他爷说着那使枪使剑的话,心下快活,思量这人也是个好汉,未免出来与他厮见。朱五经向黄巢道:「秀才无事,且在家里闲坐,待讨些盘缠相赠。」那朱温、朱全昱兄弟,每日间邀取黄巢出去闲走。一日,黄巢见有一雁飞从天外来,黄巢拿起一张弓,满如弦月,放一只箭,快似流星,将雁儿左翼射过,从半天下来。雁口中衔得一纸文字。黄巢未见那文字时,万事都休;才见了那文字后,十分恶气上心来,铁石万钧也遏不□。那纸上写着个甚的?道是:
    四边云雾迷,黄巢□□□。
    丈夫四方志,急急奔仙芝。
  黄巢看了这首诗,道是:「详诗中意义,是教咱每去投奔王仙芝也。」那时王仙芝在曹、濮、郓三州作乱。「曹州是咱每乡故,待奔归去,又没果足,怎生去得?」那朱温听得恁地,说道是:「贺喜哥哥!射雁得诗,分明是教取哥哥行这一条活路。便无果足,又做商量。咱三个兄弟,且去买些个酒吃了,却做话说。」见那酒店前挂着一个酒望儿,上面写四句诗道:
    百尺竿头一布巾,分明写出酒家春。
    相逢不饮空归去,洞口桃花也笑人。
  黄巢和那朱温、朱全昱、朱存三个兄弟,一同入那酒店里坐地,唤酒保买杯酒和肉来,四个一就吃了。那黄巢拿着酒盏抬身起来,向朱全昱兄弟道是:「咱孤单一身,流落外里,愿与哥哥结义为弟兄,他时富贵无相忘。」那朱全昱道:「咱每也有这般意思。」便叙年纪大小:黄巢与朱全昱同年,却大了五个月,便拜黄巢为兄,那朱全昱、朱存、朱温做弟弟。盟约已定,当时朱温笑道:「哥哥好说大话!您而今要奔归乡故,尚无盘缠,几时得到富贵不相忘时节?」说话里,只见朱存出来道:「咱有一个计策,讨得几贯钱赠哥哥果足归去,只要兄弟每大家出些气力。探听得这里去不远二十里,有个村庄唤做侯家庄,有个庄主唤做马评事,家财巨万,黄金白银不计其数。咱兄弟每待到二更时分,打开他门,将他库藏中金帛劫掠些与哥哥做路费归去,怎不容易?」黄巢道:「若去劫他时,不消贤弟下手。咱有桑门剑一口,是天赐黄巢的。咱将剑一指,看他甚人也抵敌不住!」道罢便去。行过一个高岭,名做悬刀峰,自行了半个日头,方得下岭。好座高岭!是:根盘地角,顶接天涯。苍苍老桧拂长空,挺挺孤松侵碧汉。山鸡共日鸡齐斗,天河与涧水接流;飞泉飘雨脚廉纤,怪石与云头相轧。怎见得高?
    几年下一樵夫,至今未曾到地。
  黄巢四个弟兄过了这座高岭,望见那侯家庄,好座庄舍!但见:石惹闲云,山连溪水。堤边垂柳,弄风袅袅拂溪桥;路畔闲花,映日丛丛遮野渡。那四个弟兄望见庄舍远不出五里田地,天色正晡,且同入个树林中躲了,待晚西却行到那马家门首去。从那岭腰分路入这小路上去,那树林深处,见一个小小地庄舍,僻静田地里,前临剪径道,背靠杀人犊春谄渖恿钊诵牡ㄉィ
    料应不是孟尝家,只会杀人并放火。
  那朱温见庄门闭着,不去敲那门,就地上捉一块土,撒放屋上。只见一个大汉开放门出来。黄巢进前起居,问丈人高姓。那大汉道:「我姓尚名让,祖居濮州临濮县。因关东饥馑,王仙芝倡乱,遂聚众落草。欲返乡里,动身未得。」黄巢听得恁地说,不觉泪眼汪汪道:「叔叔好交您知,咱也是曹州人氏,只因赴选长安,流落外里,而今盘缠阙乏,无因得回乡故,撞着朱家三个弟弟,邀小人今夜做些歹生活。且借盛庄歇泊少时,求些饭吃,待晚便去。」尚让道:「不消恁地。咱每部下自有五百个喽《巳嗣退平鸶眨龈鲇氯缱勇贰L鹊妹畔伦龈雒酥鳎稍袢毡憷氪思洌赝旧甭踊厝ィ谎占浔愕焦氏纾渭改浮!够瞥驳溃骸冈塾刑齑蜕C沤R豢冢蛭薜校慰龈形灏偃讼啻樱问虏患茫俊沟腊眨腥悯Ь粕迸#虐觳璺埂;瞥泊卧缬胫烊拧⒅齑妗⒅煳氯龅艿芟啾穑傩心谜抵龈叮骸杆招值苊扛还笫苯冢牟幌嗤!沟腊眨髯岳肴ァ
  那黄巢得五百贼众,拣下辛卯日离那悬刀峰下,将那村庄放火烧了而去。一路上遇着仓库,便劫夺米粮,投向曹、濮州路回去。不数月,行到临濮县,将五百人潜伏深山中。两个潜地入县坊去,但见县城摧坏,屋舍皆无,悄无人烟,惟黄花紫蔓,荆棘蔽地而已。行到前面,见荆棘中有一草舍,有个老叟在彼住坐。尚让往见老人,因赋一诗道:
    老人来此话离情,泪滴残阳诉楚荆。
    白社已应无故友,秋波依旧绕孤城。
    高天军参齐山树,昔日渔家今野营。
    牢落故乡灰烬后,黄花紫蔓上墙生。
  尚让吟罢此诗,同黄巢问老人借宿。老人道:「昨因王仙芝反叛,尚君长军败,已在狗脊岭伏诛,累及爷娘良贱,一齐斩了。见今出□捕捉他弟尚让未获。」唬得尚让顶门上丧了三魂,脚板下走了七魄。遂与黄巢不敢逗留,急奔过那县北十里头,小地名仁义里,投奔舅舅家借宿。行至一更后,月色初上,到得仁义里,悄无一人,只见舅家屋内,新坟累累。尚让行得辛苦,与黄巢且坐歇子,因感泣,乃为诗一首:
    平生感慨有谁知?何事谋身与愿违!
    上国献书还不达,故园经乱又空归。
    孤城日暮人烟少,秋月初寒垄上稀。
    世境飒然如梦断,岂能和泪拜亲闱!
  黄巢为见尚让吟诗,他也吟四句诗道:
    秋光不见旧亭台,四面荒凉瓦砾堆。
    火力不能烧尽地,乱生黄菊眼前开。
  两个吟诗一罢,放声大哭。忽闻人语马嘶,唬得黄巢、尚让两个潜伏荆棘中。须臾兵围搜捉,黄巢两个被乱军捉住,却是齐州王[部下兵众,因见尚让,喜曰:「尚先生在这里!」因问黄巢:「此丈姓甚名谁?」尚让依直与他说了。王[道:「黄巢莫是曹州冤朐县黄宗旦的儿子么?近见费博古向咱道:『将次有个尚铁面带得一个黄将军来,可立他做军长。』这人应着谣谶。近来桑门现,大内金星又现;嘉德殿前黄蚁斗声如雷;终南山石人自哭,血雨降下,石人言道:『三七二十一,由字头不出,脚踏八方地,果头三屈律。』又大内前地陷,得石碣,有字道:『贝边戎,乱中国;非青,非白,非赤,非黑。』此应中央『黄』也,贝边戎乃『贼』字也。又『三七二十一,由字头不出,脚踏八方地』,乃是『黄』字;『果头三屈律』,乃是『巢』字。又京都童谣云:『金色虾蟆三角眼,翻却曹州天下反。』今黄将军目生三角,实应这谣谶。小人部下有五百军,愿立黄将军为军长。」黄巢大喜,令尚让部那悬刀峰下五百人同来,计一千人军,即日离了仁义里,同那尚让、王[三个投向濮州路去,投奔王仙芝。
  王仙芝听得黄巢来到,开着寨门,自跃马出寨,迎接黄巢等回寨,分宾主坐定,致酒相问劳。仙芝道:「向与黄将军同举进士不中,曾相聚贩卖私盐,苟求升合之利度日,岂料遭世饥荒,落草为盗。今日复相聚会,此天以英雄赐我也!」喜不自胜,即日署黄巢为冲天太保均平大将军。巢受命大喜,按桑门剑誓师道:「今日之事,皆赖诸君同心戮力,共成伯业!」宰牛设宴。宴罢,吟一诗道:
    落叶潇潇庭树红,晓杨枝畔带金风。
    君子位重邦家宠,小人得道琅琊穷。
    问鼎昔时观楚子,舞鸡夜畔笑刘公。
    他时端拱麒麟殿,暂借扶桑挂旧弓。
  干符三年七月,唐僖宗差宋威往沂州与王仙芝迎敌。斗经五十余合,那王仙芝力不敌,败走。宋威奏道仙芝已死,百官皆入朝,贺大寇平定。才经二日后,仙芝又在沂州管下攻剽州县。当时宋威谎奏王仙芝已死,朝廷已行收兵;又听得王仙芝复出没州县,再遣宋威捕捉王仙芝。宋威部下军兵皆叛来投王仙芝了。朝廷再改差忠武军节度使崔安潜部兵讨王仙芝。王仙芝自得黄巢来归后,连攻陷数州,如汝州、阳武、郑州、唐、邓等州,及淮南诸州,皆降了王仙芝,军声大震。到得十月,朝廷诏刺史裴渥依理招谕王仙芝。那时王仙芝写着一封书,回了裴渥道:
    小人王仙芝书呈裴尚书台座:仙芝世受大唐国恩,怎肯倡乱?实由懿宗临朝听政,
  委用非人,奢侈亡度,赋敛烦急。连年水旱,州县不以实闻,朝廷不行仁政。百姓流殍,
  无所控诉,相聚为盗,岂得已哉!今承下喻,倘朝廷柄用贤臣,宽徭薄赋,则仙芝敛兵
  不战,免使生灵涂炭,皆尚书仁人一言之利也。仙芝顿兵城下,听候指挥,伏取处分。
  裴渥得书大喜。即日开城门,迎接王仙芝及黄巢等入城,置酒欢宴。正是:
    琉璃钟,琥珀浓,小槽酒滴真珠红;烹龙炮凤玉脂泣,罗帏绣幕围香风。吹龙笛,
  击鼍鼓,皓齿歌,细腰舞。况是青春日将暮,桃花乱落如红雨。劝君终日酩酊醉,酒不
  到刘伶坟上土。
  宴会已罢,裴渥令书记段璋写表奏闻于朝。朝廷降诏,除王仙芝为左神策军押牙。诏下,王仙芝大喜,欲拜诏受命。黄巢大怒道:「当初咱每与明公共立大誓,横行天下。今明公轻信裴渥游说,独取美官而罢,使部下五千余众,何所归向?」因奋拳殴击王仙芝,伤中其首。众军喧哗不已。王仙芝便不敢受命,即日将裴渥杀了。分其军为两军:一翼军有三千人,从王仙芝大掠蕲州;一翼军二千人,与尚让从黄巢就那蕲州分道寇掠。
  干符四年二月,黄巢攻陷郓州、沂州、濮州,又取虔、吉、饶、信等州,遂入浙东,扰乱福建诸州。
  干符六年正月,朝廷差高骈统兵分道收捕黄巢。九月,黄巢攻广州甚急;为见朝廷军声再震,遂有厌兵的意思,上表求为广州节度使。僖宗使宰相会议。左仆射于琮道:「广州市舶宝货所聚,怎可令巢贼得之?请除黄巢充率府率。」巢得告身,大怒,擒广州节度使李迢,使迢草表。迢道:「咱代受国恩,亲戚满朝。腕可断,表不可草!」巢怒,将李迢杀了,遂寇潭州。
  话不要絮烦,且说那朱温自与黄巢相别后,其父朱诚丧亡,朱温共那哥哥朱全昱、朱存侍奉那母亲王氏。一日,瓜园内有个方山道人庞九经为他讨地,令朱温将父丧掘地三尺葬之,不要走却金神。朱温依他所教,掘地安葬朱五经,只留得金色飞鱼二个,都不全,及被打杀,并断为两三段,填埋穴内,葬父在上。后数日,庞九经回见土色无光,草不润温,道是:「七七四十九个金神,走了四十七个,只有两个,更不圆全。汝家虽出二帝,可惜不得善终。」那朱温葬了那爷,分明是:
    神仙指出羊眠地,福地须还葬福人。
  那朱温葬了那爷爷,侍奉他的娘娘王氏,和那二个哥哥,同往徐州录事押司刘崇家,驱口受佣工作:那长子全昱为刘崇家使牛,次子朱存为刘崇家锄田,第三子朱温为刘崇家放猪,伊母王氏为刘崇机织。刘崇的娘,夜见朱温,排行唤做朱三,睡后有赤光。一日自东冈回,见朱三在日中眠睡,有赤蛇贯从朱三鼻里过。刘崇的娘与他的儿子道:「休教朱三放猪,此儿他日必定富贵。」刘崇便唤朱三共他的儿子刘文政同入学堂读书。怎知朱三与刘文政却去学习赌博,无所不为;又会将身跳上高墙,行屋上瓦皆不响;又会拳手相打,使枪使棒,不学而能。乡里人呼他做「泼朱三」。刘崇向朱三道:「丈夫当立功名,何故号做泼朱三?」
  一日,共那刘文政赌输了钱,厮赶走了,不敢回家。经一月余,河北地有贼名张占,诨名叫做「张捻」,抢遍地、白荷叶杯、朱漆笠、杨先、刘文等,打劫刘崇家财。朱温得知,同那刘文政在半路截住,捉了张占,夺了家财,放张占自去,共刘文政同去饮酒赌钱。刘文政与那北石佛村教学的秀才杨崇赌钱相争,拿起骰盆,将杨秀才一下打杀了,被捉去押下徐州左狱拷勘。分明是:
    官法如炉,人心似铁。
  那文政已下狱了,朱三问刘崇觅钱二百文,待去徐州救取刘文政。一夜赶到徐州,撞着一个乡人,朱温请他入酒店买些酒吃,饮酒后,问乡人道:「怎生有路入得左狱?」乡人道:「左狱皆是重囚。若折人一股,眇人一目,打落人双齿,便该重罪,即得入狱。」朱温便寻闹挥拳,打落了乡人两齿,被地分投解徐州,送左狱禁勘,恰与刘文政同匣。是夜三更,风雨骤作。温打开匣,脱了枷,同那刘文政跃身从气楼走出,撞着弓手节级霍存、白守信,他两个曾在刘崇家做庄客,认得是朱三、刘文政,四个厮赶同走。奔到刘崇庄上,忽见庄上火焰起,朱温知是张占又来打劫刘崇家财,又夺下了家财,放张占去。朱温与刘文政商量:「咱若久留此处,必定带累刘崇打官司,不如落草闪避。」昼间潜伏,夜后起行,将次到齐州界。夜色二更,月明如昼,如何见得?
    远望青霄练静,遥观碧汉澄辉。银河时度现微光,斗柄横移星宿转。月华如昼,天
  静无云。谯楼禁鼓报三更,漏滴铜壶中夜至。
  是夜月光皎洁,撞着一阵军马,约三百余人,将朱温四人喝住,问道:「您是谁人?要从那里去?」朱温应声道:「小人是泼朱三。敢问将军姓氏?」那为首的人大喜道:「我前时见张占说道,有个朱三的雄勇过人,正要与弟兄同来萧县里相探;不自意中夜相逢!咱是牛存节,青州博昌人氏,不得已而落草。」邀请朱温,和那刘文政、霍存、白守信等四人,同入林中共饮。坚请朱温做个军下首领,牛存节副之。议论一定,朱温向牛存节道:「此去齐州,近在五十里,打听得官兵四集,怎可久居?我等聚众数百为强人,若不攻打州县,如何能致富贵?劫一村不如劫一县,取一县不如取一州。咱每要差一人去齐州打探。」朱温使霍存打扮做庄家人去。刘文政坚欲同往,温道:「您爱贪酒,莫误我事。」文政坚要共霍存去。
  去到齐州探事已了,向霍存道:「朱三哥怕我吃酒,咱今事了,吃些又碍甚事?」遂入酒店连饮了数升。忽见一少年,将一口刀要卖。刘文政要买,问多少价。少年道:「要价钱三百贯。」文政道:「恰有三百钱,问你买了。」少年人怒道:「您三百钱只买得胭脂腻粉!咱每这刀,要卖与烈士!」文政道:「您怎知我不是杀人烈士?」遂夺少年刀,杀了少年人。被地分捉了刘文政,解赴齐州。
  霍存独自一个走回寨上来报事因。朱温道:「又却是刘文政贪酒误事也!」牛存节道:「须索去救他。」朱温道:「咱自徐州劫狱后,官司防备严紧,只得候出斩时,去劫法场救他始得。」打听得齐州扫洒法场,要出重囚。朱温与牛存节诈做卖柴人,藏刀仗放柴内,用大车加载城,藏刀在裤内。在法场人丛中,四散分布了人。到日中时分,有监斩官杨巡检名庆的,押刘文政赴法场处断。牛存节鸣锣为号,朱温等各执刀奔来,将刘文政夺了,出北门望鲍出路去。奈杨巡检统军赶来紧急,朱温坠身入涧,别寻路走,与刘文政、牛存节、霍存、白守信四人相失了。真个是:
    相逢不下马,各自奔前程。
  且说那朱温出涧,取登州路去。方入城,被一人向前将朱温扯住,喝道:「你怎在此t」唬得朱温股栗惊颤。那人向朱温道:「咱是您的姊夫,登州孔目官燕守志也。您恁时幼小,认我不得。我将你去探你姐姐。」遂带朱温回家,时八月十五日也。
  登州有海市,燕守志邀朱温同看海市。忽庄客来下书,报道:「张占强人下海,要觅酒食,犒设儿郎。」燕守志正在烦恼,朱温向燕孔目道:「姊夫与家老小,且往邻村闪避。咱在此应对他不妨。」张占使人来报信,被朱温射了一箭。张占奋怒,入来觑见是朱温,大惊问道:「朱三哥何故在此?」朱温道:「燕孔目是咱姊夫,他无可犒设,您来吃些个酒了去。」张占道:「来早下海去,恐怕你阙少果足。」留金银赠朱温,相别而去。这正唤做:
    螳螂正是遭黄雀,黄雀提防挟弹人。
  次日,燕孔目归庄,向朱温道:「强人张占,自来扰害平民,赖得朱舅保全。若得朱舅只留此住坐,使强人不敢来,这村中皆荷威德。有少事相闻:咱有小女,尚未适人,欲侍巾栉。」朱温听从其言,择日成亲。花烛夜宴会,可谓是:
    箫鼓喧天,笙歌聒地,画烛照两行珠翠,星娥拥一个神仙。
  那朱温成亲后,才得五七日,有两人□庄□同寻朱三,见朱温道:「昨日张占来,说您在这里,李将军教我二人来取你。你却在这里做女婿,好快活!」朱温便将那张占所赠金银,付与丈人燕孔目:「权为看觑妻子,三年却来相取;如三年不来,即一任改嫁。」便辞了燕孔目而去。共着霍存、白守信,每日昼则隐伏,夜则起行。正行间,撞着虎与牛斗,霍存、白守信唬得走上树去躲了。朱温靠树放虎过,放一箭射中虎肩膊,拔枪刺牛中肋。忽有一人从背后笑道:「朱三哥真勇士也!」霍存、白守信道:「这个李将军。」朱温跪见。李将军将朱温手携取,入寨相共商议:「今天下盗贼纷纷,童谣四起,咸言黄巢应谶。今小人要共公等率兵投他,共图大事。」朱温见恁地,说道:「黄巢旧时至咱家里,与咱每结义为弟兄,也是咱每哥哥。今闻黄巢引兵犯宋州去,咱愿随李罕芝、霍存、白守信等三人,厮赶去投黄巢。」
  巢见朱温,叙旧日弟兄情话,大喜道:「咱久闻威名,今日得共其事!」即拜尚让为太尉,朱温为金吾将军。下令谓朱温道:「宋州归德节度使张蕤,年老无兵,不肯降附。限三日,您破宋州。」未行间,有流星马走报:徐州大将黄钺来救宋州。巢与葛从周商议,使朱温去截黄钺兵。温道:「先受命限三日取宋州,乞别差人。」黄巢道:「截黄钺的勾当,须索你去。」朱温归告指使李彦威道:「您去攻破宋州,为我夺取张节使归娘。才得,便发文字来报我。」当日宋州已破,张蕤自缢而死。李彦威来申:「今得张归娘,申上将军。」朱温得书大喜,却不防备被徐兵劫寨,杀伤甚众。黄巢大怒,急召朱温至帐前前,怒骂道:「您是咱每弟弟,故把宋州兵权付您,却为贪女色,擅自离军,折了我兵三千。若不行军令,怎能伏众?」喝令李罕芝将朱温推去法场斩了。欲待下手间,听得有人喝道:「不得枉坏勇士!」李罕芝抬头一觑,却是刘文政、牛存节、霍存、白守信等四个。「我每同将军归投黄大王,今未蒙赏赐,便要行刑。若放朱温,大家无事;若不肯,请与将军决胜负了去也!」李罕芝不得已,引众人来告黄大王,乞放朱温。葛从周道:「且恕一次,后犯不赦。」
  广明元年十二月,黄巢统军入潼关,未几,又引兵趣长安。百官奉僖宗皇帝驾幸兴元。黄巢陷长安,凡唐之宗室在长安者,尽行屠杀。遂入大内,自称大齐皇帝,改元金统元年。授尚让为太尉,朱温为金吾卫上大将军,屯兵东渭桥。黄巢既称帝,便骄奢无度,命朱温统兵二十万攻河中。那河中节度使王重荣,为见贼势方炽,姑欲少屈,以纾目前;奈黄巢调发无厌,一日,驱黄巢使命尽杀之,统兵与朱温迎战。两处阵圆,阵前一员将,绰马出阵,却是人材凛凛,有如天降鬼魔王;容貌堂堂,撼动天关药叉将。斗经几合,只见朱温拽马退走,被王重荣伏兵四起掩击,车马兵士杀伤过半,获粮草兵器四十余舡。朱温败走,遣奉使王处存结盟,引兵就渭北田地里屯驻。
  中和元年,朱温攻陷邓州。二月,郑畋纠合党项羌、拓跋思恭会兵~、延,与节度使李孝昌同盟讨贼。乃传檄天下,檄文云:
    昔汉遭王莽之变,二十八将感会风云,而开中兴之业。晋罹五胡之乱,而祖逖击楫
  中流,誓在兴复;王导新亭之叹,亦欲戮力神州。何物黄巢,敢行称乱?迫胁天子,屠
  戮城邑,俘我人民,掠我金帛,海内闻之,莫不切齿!今帅诸路兵马勤王,远近忠义之
  士,各思自奋,剪除巨贼,扫清中原,使园陵再安,钟?如故,顾不伟欤?檄书到日,戮
  力功名,封侯图王,在此一举。布告中外,咸使闻知。故檄!
  檄书才下四月,官兵声势复震。唐弘夫领兵屯驻渭北,王重荣领兵屯驻沙苑,王处存屯兵渭桥,拓跋思恭屯兵武功,郑畋屯兵T。当时黄巢部兵迎战。唐弘夫在地名龙尾下寨,排背水阵,与黄巢厮杀。黄巢连输数阵,引兵投东便走。当有程宗楚部军,先入长安城。唐弘夫共那王处存帅精锐兵士五千人,星夜入城。百姓欢声动地,各抛掷砖瓦,赶杀巢部下溃军。唐弘夫等大纵军兵讨掳,劫掠仓库,开宴犒军。黄巢露宿地名霸上,探知前军无备,再攻长安。程宗楚、唐弘夫跨马迎敌,被黄巢放一箭,先射中程宗楚额角,坠马而死;唐弘夫方待退走,被朱温跃马赶上,横枪一刺,刺下马来。军士被杀者,十分已着了八九分。黄巢兵再入长安城,纵军洗城,不问老幼,一时屠戮,流血成川。勤王诸军,尽皆溃散。
  干宁二年正月,王铎上表,自请做诸道行营都统,辟崔安潜做那副都统,辟周岌、王重荣做司马,辟诸葛爽、康实做先锋使,差王处存、李孝昌、拓跋思恭做京城三面行营都监使。朱温打听得官军又四起,黄巢问朱温道:「咱自称帝后,再入长安,军民都有怨望,为之奈何?」朱温道:「哥哥自从做皇帝后,残忍忒煞。只因洗城令下,尸骸满城,民无固志;掠得府库子女,不放散赏军,军有怨言。咱听得四处已得州县,太半反叛归唐。有那同州是个要害田地,须索个好伴当每去据守。」黄巢回言:「不奈何烦朱将军去同州,缓急看兄弟的面皮相救援则个。」道罢,朱温待归营收拾了,分付着老小,拣好日起行。只见那妻子张归娘泪蔌蔌的下。朱温向张归娘道:「咱每行军发马,您哭则甚?」张归娘只管含羞不说,泪珠似雨,滴滴地流满粉腮。正是:
    玉容寂寞泪阑干,梨花一枝春带雨。
  朱温镇日价只是去四散走马球,使枪射箭,怎知他浑家曾被黄巢亲到他军营来相寻,因见张归娘生得形容端正,美貌无双,使些泼言语,要来奸污他;奈缘张归娘是个硬心性的人,不肯从允,跪谢黄巢道:「妾丈夫朱三,是大齐皇帝的弟弟,大齐皇帝便是妾的伯伯。皇帝新得天下,未有休兵之期,岂宜行这无道的歹勾当?」道罢,有人报朱温已回,黄巢潜身便走。那时节张归娘不曾敢向朱温道。今听得朱温要往同州,只得依直说了。朱温未听得万事俱休,才听得后,怒从心上起,恶向胆边生:「却不叵耐这黄巢欺负咱每忒甚!」时下间,便带将他的老小、部所属军,不辞黄巢,迤I向同州路去。黄巢得知朱温有反叛的意思,差使命兵喜来赶,到那小地名离愁村,赶着朱温。温将岳喜杀了,教他的伴当将岳喜首级回去报与黄巢道:「朱三传示黄巢:您今盗有长安,僭号大齐皇帝,全不记得咱每兄弟带挟他在悬刀峰下结义做弟兄,相同投奔着尚让时分,曾指天说誓道:『富贵时,无相忘。』今才得长安,便要来奸占咱每浑家。这黄巢是个无信行的头口!咱自去据了同州,他日相逢,不妨厮杀!」道罢,将些银子与那岳喜的伴当,交他好好的传示着。吓得那厮,命如柳絮飘风,心似鸟鸢中弹。
  二月间,朱温赶到同州据守,又侵了华州。四月间,王铎统诸道兵进逼长安城。那黄巢部下叛去的十分去了七八分;同、华二州,又被朱温据了。九月十一日,朱温同、华二州来投王铎归降。王铎一见朱温,自下阶携朱温手,接入帐坐,定议要捉黄巢。朱温道:「黄巢所恃者谁?尚让、葛从周两人。尚让与小人有肚皮,咱密地招之,令他先叛;然后谋取葛从周。若除了这两人,巢贼不足平也。」王铎闻说大喜,署朱温为同华节度使,写着表一道,奏了。表文曰:
    臣王铎近钦奉圣旨,统领诸道兵马,攻取长安,共图恢复。于今月十一日,有伪齐
  黄巢义弟朱温,将同、华两州印信,部领所隶军马二万,赴军前纳款愿附,且进除凶之
  策。臣铎切谓王师所向,军民响应,忠义勇烈之士,归诚效顺,倘无激劝,何以奖励后
  来?已便宜署朱温充同、华二州节度使外,谨具奏闻,伏候敕旨。
  昭宗皇帝在兴元得王铎表奏,出示臣寮。田令孜贺云:「天心悔祸,义士来归。且同、华乃要害田地,今为王都统收复,巢寇无能为矣。此天与我以兴复王室之机也。宜乘朱温来归,结以恩信。」朝廷差着使命,宣授朱温做河中行营招讨副使,赐名唤做全忠。那朱温既得招讨副使,潜地遣霍存轻身入长安城里,招诱那尚让,便写着一封书道:
    小弟朱温书奉尚二哥哥军师元帅钧座:小人自悬刀岭下,得与哥哥相遇,那时黄巢
  与温兄弟结义为弟兄,誓愿富贵无相忘;自投王仙芝后,同举大事,今僭称伪齐,盗有
  长安,便生欺负之心。因截徐兵,几遭虎狼之手;赖得葛先生保全,侥幸至此。温去逆
  从顺,今蒙大唐皇帝赐温改名全忠,宣授河中行营招讨副使,与曩时从那贩盐贼黄巢为
  鼠盗日,天渊之隔。今欲邀哥哥同来归忱天朝,保有富贵,未委哥哥意下如何?未会尊
  颜,切乞保重!小人朱全忠书呈。
  霍存得书后,一直奔入长安,寻见尚让投下。尚让道:「喜得朱三弟消息!」因留霍存住,「经两日,候咱与葛先生商量。若得葛从周相允,黄巢特杌上肉,何足虑哉?」两日,霍存辞归与让,道:「咱更不回书,您好生传示朱招讨道:咱与葛先生商量,我两个若归大唐,自是□路。莫若且留军中,约有进兵时节,咱两个从内叛起相应,屠这□寇,反掌间耳。但彼此须索机密,不可漏泄。所谓机不密则害成也。」得黄金十两,津发霍存回归。
  朱全忠得尚让的信息,于十一月尚让招诱葛军师,将黄巢亲信人向铁面、温爷等一齐杀了,夺取他军来归朱全忠。十一月,朱全忠使葛从周统兵攻取兖州,自统大军相继攻城甚急。兖州太守朱u使部下将贺1、柳存、何怀宝部兵万余人,攻袭曹州。葛从周又自策应,曹州与兖州之围遂解。朱全忠部兵追赶贺瑰等,行至野赶着,与三将布阵索战。两处阵圆,皂雕旗开处,一员将军出阵前,高叫:「咦!阵上有甚头目出来相见?」朱全忠上马出阵。问:「贼阵上将军,愿闻姓字!」全忠驻马道:「我是大唐招讨副使朱全忠,诨名唤做泼朱三。对阵将军,愿闻姓氏。」那将军答曰:「咱是朱太守下部将贺瑰。我既走避,招讨只管赶来则甚?」可谓是:
    人无害虎心,虎有伤人意。
  朱全忠闻说,勒马便斗。但见如两虎争餐岩畔,如二龙夺宝波心。跨马当锋,玉斧斫来心胆碎;披袍临阵,金枪刺动鬼神惊。二将马交,斗经三十余合,不见输赢。只见黑风四起,杀气漫空,顷刻间那贺瑰兵败。朱全忠纵兵掩杀,生擒三将:一个是贺瑰,一个是柳存,一个是何怀宝。俘获三千余人。朱全忠将所获的俘虏,尽皆杀了;缚三将向那兖州城,与朱u道:「三将已败,何不早降?」道罢,将柳存、何怀宝二将杀了;放贺瑰入城招那朱u去。不半日,朱u同贺瑰来降。兖州遂已收复。
  中和三年闰月,李克用遣李存信将兵救兖州、郓州。二月,朱全忠遣庞师古统所部兵攻郓州,数月不下。六月,李克用进兵攻取魏博,朱全忠遣葛从周统兵解魏博围。葛从周受命,部兵次地名洹水,李克用引兵对阵,一箭炮石打不到处,两处阵圆,李克用与葛从周,交马对战。葛从周密地使人就阵前凿坎。斗战正酣,李克用马跌,几被散军执住。李克用见势急,放一箭射杀了散军。葛从周见不分胜负,遂同庞师古统所部军攻打郓州,遂复郓州。那朱u兵少粮尽,不复索战,但引水来,开着那深濠,为固守计。庞师古与葛从周商议,命工匠造着浮桥,夤夜济师。朱u困蹙,弃城逃走。走到小地名杀猪林,被散兵拿住,解送朱全忠军前。朱全忠大军入郓州,署庞师古做着天平留后职名。捉了朱瑾的妻子赴军前,朱全忠的浑家张夫人请见,瑾妻下拜。夫人亦答拜,向瑾妻道:「兖、郓与司空约为兄弟,今以小嫌,起兵相图,使吾姒困辱至此。使汴州一旦失守,贱妾亦如吾姒今日之受辱也。」朱全忠遂逐瑾妻,押朱u就军前斩了。
  自此郓、齐、曹、棣、兖、沂、密、徐、宿、陈、许、郑、滑、濮十四个州府,皆受朱全忠节制。朱全忠犒设大军罢,使葛从周守兖州,朱友裕守郓州,庞师古守徐州。十月,朱全忠大举击杨行密,到地名清口屯驻。杨行密与朱瑾统兵三万索战。庞师古就清口下营,谋士王浩向师古道:「营地污下,恐有灌水之患。」师古恐其惑众,斩了王浩。杨行密先布阵索战,与庞师古交锋,斗经数合,被朱瑾统五千人驻中军,壅淮水灌师古军营,汴兵大乱。行密与朱瑾乘胜掩击,溺水的,杀死的,不计其数。被杨行密拿了庞师古,就军前斩了。葛从周收拾溃军,不满千人,来奔朱全忠军前。朱全忠军势稍衰。
  光化元年三月,朱全忠使副使韦震入朝,求兼镇天平。朝廷怕朱全忠势焰,宣授朱全忠为宣武宣义天平节度使。四月,朱全忠会集幽州、魏博两处兵马,攻击李克用,连拔持荨⑿现荨⒋胖荩羁擞猛偌酢J拢詈敝ィ幻阶瞿ピ平却永羁擞檬詹锻跣需ぃ呕袷そ荩蝗眨蚶羁擞玫溃骸感∪舜酉喙芯龊筛R瘢轿薏皇ぃノ薏环仓竿姑癫辉赶喙W啵酶鏊Ц拿郑膊煌髁私《啃量唷!估羁擞玫溃骸改醪恢跣需さ蔽捶磁眩仓灰蛞惺压停蠊倬簦食⒉钤勖渴詹丁F圃羰狈郑垡丫咦啵呷に瘴慕ǜ罢蛟×恕5苯裼钟形抛啵醪坏牢颐恳惭跣需さ囊话阈刑ぃ亢蛟酃檎蚝螅喙Γ次僖病!估詈敝ヒ虼瞬辉谩G∮稣岩褰诙仁寡χ厩谵埃趁艿匾笾荼沓艘谷肼褐莩牵葜魃绷耍督抵烊摇T诤罄羁擞檬估钏谜淹潮锤侠詈敝ゲ患啊@钏谜严热〉廊朐笾荩詈敝サ睦闲∫黄肽昧耍馑徒衾羁擞镁啊V烊冶碜嗍鹄詈敝プ稣岩褰诙仁埂
  光化二年正月,刘仁恭调发幽州、沧州等十二州兵马攻贝州。城中千余户,尽为仁恭屠杀。三月,刘仁恭进兵攻取魏州。有节度使罗绍威到朱全忠军前纳款求援,朱全忠道:「刘仁恭恣行杀戮,且有单可及骁勇,此亦劲敌,未易破也。」急请葛从周至帐下商量,调遣李思安统所部精兵救魏。刘仁恭打听得朱全忠部将李思安前来救援,急遣单可及疾忙将领精兵五万人,前来迎敌。那单可及素号骁勇,心里欺负着李思安兵少,却被李思安将兵马藏伏在四处了,写着了书来单可及军前索战;那单可及恃勇,便轮刀上马出阵接战。李思安跃马交斗,经二十余合,思安拽枪佯败,退走。单可及乘胜追击,走到小地名沧滩,伏兵四出掩击,单可及被李思安刀横膊转,从马上斫下来,俘杀三万余人。葛从周乘胜攻破魏州城。刘仁恭为失却单可及,仰天大哭,自放火将军营烧了,一夜逃遁。葛从周向朱全忠道:「下坡不走,快便难逢,只好一就攻取河东。」使那氏叔琮做着先锋。李克用使周德威前来接战。那氏叔琮部下有一个骁将是陈章,诨名叫做陈夜叉,向叔琮军前请单骑与周德威索战:「听得河东倚重者周阳五一个。今番定要生擒活捉来献军前,就求一州为赏。」道罢,到地名洞涡与周德威挑战。德威诈败走却,陈夜叉一直赶上,被周德威奋铁挝反击,陈夜叉坠马,被周德威生擒,以献李克用军前。葛从周亦引兵退守魏州。李克用喜曰:「周阳五此举,足以雪沧滩一败之耻矣!」举酒相庆,奏辟周德威充行营司马。
  光化三年四月,朱全忠请葛从周赴行府议事,命左右排办些茶饭饮宴。朱全忠道:「自陈夜叉一败后,独眼龙威望日盛。咱思量有旧日的弟兄刘文政、牛存节几个,骁捷有胆智,须索去寻他每来共图大事。」葛从周道:「俺细思镇州密迩太原,若得王F与那独眼龙不甚通和,则可以专意攻讨矣。」全忠道:「有甚人可去招诱王F么?」葛从周道:「这事容易。探听得王F属官周武,与咱每是个姻眷,俺使他招那王F;若得镇州,则河东不足梢病!骨仓芪浞钍拐蛑荩∮龀傻屡泄傩照琶蟮模菜的峭蹰F,唤他来降朱全忠,则可以借朱公声援,李克用纵强,不足怕惧。王F决意将镇州来归。此后瀛州、景州、莫州、定州,不战自溃。王处直诣军前,献缯帛十万疋,犒设军旅。朱全忠仍为表闻于朝,求节钺。河北诸镇,一举而定,莫非受朱全忠的节制。
  朱全忠一日会着那葛从周、王F、王处直、那氏叔琮、张泽、周武、李思安、李罕芝、罗绍威、朱友裕、韦震等,大小十一官人每,做着个太平筵会。那筵会如何?
    宝盘雕俎,玉邢浚壅涔湫缕妫梆嘉肴香馥郁;□中喷金鼎龙涎,盏面
  上波浮绿蚁。
  筵会才半,那李罕芝共葛从周几个,手拿金盏,向朱全忠座前称贺道:「明公威震河北诸镇,悉甲长驱而前,河东特囊中物耳。请此卮酒,为明公寿!」朱全忠接盏饮罢,却回献那几个官人酒。正是宾主喧哗,觥筹交错。忽见筵前有一个白兔走过,那个白兔生得霜毫错落,玉体轻盈;四蹄壮健疾如风,双眼鲜明光耀日。那白兔从筵前过,傍若无人,出没走跃。吃那朱友裕张着那弓,放着个箭,箭到处,那白兔死倒在地。使人取来,可煞作怪,那白兔又变成一张白纸,上面写着四句。写个甚的?
    河北虽平定,少阳重困危,崔公同举事,趣向大梁归。
唐史平话目录
  卷之上
  论沙陀本末
  李赤心生李克用
  李克用为沙陀副兵马使
  诏两镇合兵攻沙陀
  李国昌父子北入鞑靼国
  李友金招李克用归唐
  李克用奉诏伐黄巢
  李克用一日三捷
  李克用统兵复长安
  朱全忠求救于李克用
  李克用进军至汴州
  朱全忠请李克用入城
  李克用宿于上元驿
  朱全忠谋杀李克用
  薛志勤救李克用
  李克用诉朱全忠于朝
  僖宗遣使为二人和解
  进李克用为陇西郡王
  李克用奏请车驾还宫
  朱玫立襄王奔喙
  李克用进讨朱玫
  李克用享土于三垂冈
  削夺李克用官爵
  李克用上表讼冤
  复李克用官爵使归镇
  遣李存勖诣行在起居
  李克用为招讨使
  李克用收三叛
  进李克用爵为晋王
  昭宗出幸华州
  李克用攻刘仁恭
  朱全忠使氏叔琮攻晋
  李克用与刘仁恭和
  朱晃篡唐称帝
  李克用病笃
  李克用以兵柄付李存勖
  李丰勖袭位为晋王
  晋王自将救潞州
  晋王擒刘仁恭、刘守光
  晋王攻取魏州
  晋王袭取澶州
  刘攻魏州
  李存审败刘
  安金全攻退梁军
  契丹进围幽州
  李困源救吻州
  李嗣源败契丹复幽州
  晋王引军趋魏州
  晋王攻拔杨刘城
  魏州僧献唐傅国宝
  诸将劝晋王称帝
  卷之下
  晋王败梁军于德胜
  命李存审嗣源据守德胜
  晋王引兵救魏州
  李存审擒张文礼
  晋王即皇帝位定国号唐
  李嗣源统兵复郓州
  李嗣源为天平节度使
  粱遣王彦章攻德胜城
  唐主统兵屯澶州
  唐主问计于郭崇韬
  李从珂杀退王彦章
  唐主遣军至郓州
  李绍奇生擒王彦章
  唐主释王彦章之缚
  李延孝请先取大粱
  唐军到曹州
  梁主朱友贞自杀
  李嗣源军入大粱
  李嗣源迎唐主军
  段凝诣李从珂降
  追废朱温朱友贞为庶人
  加李嗣源为中书令
  唐主好伶优戏
  唐主自呼李天下
  唐迁都洛阳
  郭崇韬请立皇后
  命宦者采求民女充后宫
  建避暑楼
  预借夏秋二税
  李嗣源上表讼冤
  郭从谦帅兵反
  唐主为门高所s
  李嗣源入洛阳
  收庄宗骨殖殡葬
  百官请李嗣源监国
  李嗣源即帝位
  祝天早生圣人
  安重诲诬从珂反
  解安重海机务
  召李从珂为左卫将军
  翟光邺杀安重海
  石敬瑭为河东节度使
  李从荣举兵反
  皇城使斩李从荣
  明宗殂
  闵帝从厚立
  潞王举兵入长安
  闵帝出奔魏州
  潞王即位
  遣王峦鸩死闵帝
  石敬瑭出河东
  刘知远劝石敬瑭叛
  石敬瑭请传位许王
  契丹助石敬瑭伐唐
  契丹立石敬瑭为帝
  废帝自焚死
  唐史平话 卷上
  诗曰:
    朱邪部族出西夷,始入中原号执宜。
    开创后唐基业主,至今传说李鸦儿。
  话说后唐李克用,其先世出于西突厥,以朱邪为姓,朱邪盖部族之号也。唐太宗朝,使李靖袭破突厥,分诸部属置十三州。将同罗做龟林都督府,将仆骨做金微都督府,将拔野古做幽陵都督府。那时西突厥部族大的,唤做铁勒、延陀、阿史那也;部族小的,唤做同罗、仆骨、拔野古也;又其小的,处月、处密、朱邪也。
  那高宗永徽二年,处月朱邪孤注从贺鲁战于牢山,为契何力所败。在后又一百五六十年,至宪宗朝,有朱邪名尽忠的,在北庭之金满州住坐,他孩儿名执宜的来朝中国,自以沙陀为号,朱邪为姓矣。沙陀者,大碛之名也;在那金莎山之阳,蒲类海之东,号沙陀突厥。那执宜的孩儿,名做赤心,因攻讨庞勋立功,授振武节度使,赐姓名唤做李国昌。曾有一诗咏道:
    夷方大碛号沙陀,部族骁雄勇力多。
    一自天朝赐名氏,赤心报国义难磨。
  曾记得那宪宗朝,是元和三年五月,沙陀军兵劲勇,诸胡皆不能及,吐蕃凡有战攻的事,必驱使沙陀军向前,做着先锋。因回鹘攻打吐蕃,取了凉州,吐蕃心里疑沙陀与回鹘有肚皮,要将沙陀部族迁徙去河外居住。沙陀内不自安,其酋长朱邪尽忠共那孩儿执宜商量,叛了吐蕃,来归顺唐朝,乃帅部落三万人,诣灵州节度使范希朝军前投降。范节使置盐州为沙陀市,买牛马,广令畜牧,以理抚存。表奏朝廷,宪宗大喜,为创立个阴山府,使朱邪执宜做阴山府兵马使。凡遇战攻,必资沙陀军之力,所向皆捷。
  那执宜孩儿赤心,生的孩儿名做克用。其父赤心,将产克用时,是夜梦游一处,城阙雄壮,宫室高明,与人间宫殿一般。殿上坐的,戴着冕旒,穿着王者衣服;臣僚十数人,侍立左右;殿下立着几个金甲武士。赤心到殿下,金甲人喝令拜。赤心鞠躬跪拜。殿上人道:「龙猪战罢丑口破,十四年间金殿坐。十兄用武不负君,四个郎君三姓么。」说罢,赤心辞出。梦忽觉来,则妻已坐蓐,生下一男孩,壮魁伟,语声雄壮。赤心因采取梦中「十兄用武」的字,命名做克用。详着赤心这梦,分明说得后唐国祚个本末了:李克用号做「独眼龙」,与那朱全忠两个互相吞并,朱即「猪」也;在后李存勖并灭了梁,自称帝为唐,「丑口」,唐字也。这是说李克用与朱全忠相并了,立国做后唐。自同光年癸未,至潞王丙申,恰得十四年。克用为唐藩镇,答蜀主书道:「誓此一生,靡敢失节。」则是克用不负君也。李嗣源本夷狄之子,无姓氏,庄宗收为养子,是谓明宗;潞王本王氏之子,明宗收为养子;自庄宗至潞王,是四代,共三个姓,则是「四个郎君三姓」也。唐懿宗朝,咸通十年八月,徐州留守庞勋杀崔彦,自称天册将军。康承训帅沙陀朱邪赤心将数千骑为前锋,杀了庞勋。康承训奏功于朝,授朱邪赤心为振武军节度使,赐姓李名国昌。那国昌孩儿李克用,年纪长成,善能骑射,屡立大功。
  僖宗皇帝干符五年正月,李克用为沙陀副兵马使。有牙将康君立、李存璋等一处商议:「今天下大乱,朝廷号令不行于四方,此是英雄立功名,取富贵时节。今李国昌官高功大,天下闻名,他儿子勇冠三军。若辅之以举大事,则代北州郡,唾手可取。」恰遇代北饥荒,防御使段文楚减克军粮,军士怨怒,将段文楚杀了;送符印,迎请李克用做留后。克用入府视事,表奏朝廷,求请敕命。朝廷不肯允从。四月,除李国昌为大同节度使。是时国昌欲父子并据大同、振武两镇,朝廷不允。才得制书,即焚毁,杀却监军,与李克用合兵数万,进攻宁武岢岚军。十月,诏河东、昭义两镇合兵攻沙陀。昭义节度使李钧战死。
  广明元年正月,沙陀攻忻、代等州,兵逼近晋阳田地。五月,蔚翔节度使李琢将兵一万,屯代州,会合幽州节度使李可举、吐谷浑都督赫连锋,遣人说李克用部将高文集,令他归唐。文集听从,执傅文达与那沙陀酋长李友全,来赴李琢军前皈降。七月,李克用将兵攻高文集,要取朔州。李可举将所部就那地名茶儿岭下寨。李尽忠道:「我先出战。」程怀信将马骑继其后。李可举排一个方阵,李尽忠排一个圆阵。两处阵圆,二将阵前打话了,勒马便战。可举佯败,尽忠赶杀,程怀(原本下缺一页,约七百字)
释其罪。李克用承诏大喜,帅鞑靼诸部万余人赴援。李克用牒河东路,称奉诏将兵攻伐黄巢,令具粮食犒军。郑从谠闭城设备。克用乃纵沙陀剽掠,城中惊骇。克用引兵还居代州。
  中和二年十一月,黄巢兵势尚强大。王重荣共都监杨复光商量:「巢贼要怎生收捕?」复光道:「雁门李仆射父子,骁勇有强兵,有徇国尽忠之心;只因河东郑从谠与他有隙,所以不来。若假朝廷使命,晓谕郑从谠,使卑辞召之,则彼之来归,贼不足平也。」时王铎在河中将墨敕召李克用,克用遂统部下一万七千人,取道入河中。克用自带数百骑过晋阳城下,与郑从谠作别。郑从谠厚加馈遗而行。十二月,李克用部兵四万至河中。其军皆着黑衣,部伍精明。朝廷语授李克用为雁门节度使。那时黄巢在长安,夜梦黑?无千无万,飞从西北来;有一?待攫黄巢头上巾,巢走避得免。睡醒后,意下思量李克用诨名做李鸦儿,诸军皆着黑衣,谓其党曰:「鸦军到矣!当避其锋,不可与战。」
  中和三年正月,李克用与黄巢的弟弟黄揆,在沙苑田地会战。黄揆败走。王铎表李克用为东北面行营都统。三月,黄巢军败食尽,待为逃遁计。那时李克用正攻打华州,黄巢发军三万向蓝田路把隘,遣尚让去攻华州。李克用共王重荣统军前来迎敌,尚让大败而走。李克用乘胜进军渭桥,每夜使部将薛志勤、康君立密地入长安城里,将粮草焚烧,斩虏而归。巢寇惊骇,以为神兵。五月,李克用会合忠武将庞从、河中将白志迁等,统军前进,迫近巢贼军营,在渭南田地里下营;写书与黄巢索战。李克用便打扮出阵:
    头盔金水镀,金脑打正貌狻猊;介傧蛞保砥龅钩肘初簟<骁殍#锘宋
  露尾梢翎;弓控壶钟,龙在波藏露头角。面上金光闪闪,手中雪刃辉辉。鞍心一拍甲裙
  开,膀转身横靴入镫。
  那黄巢如何打扮?
    三叉淡金冠,叩牙朱蹀(足奕)。斜褐毛衫,鞔裆波裤。沙柳木捍箭,手抱铁枪,骑
  一匹豁耳破臂幞蹄战马。
弓箭炮石打不到处,两处阵圆。一员将军出阵,绰马打话。那黄巢□□问道:「对阵有甚头目?愿闻姓字!」李克用出马答道:「咱是沙陀□□射的儿子独眼龙。黄巢反贼!您若会事之时,束手归降,两国□兵。若执迷不反,待擒汝赴军前,斩汝万段,以谢天下生灵!」黄巢闻说大怒,更不答话,交马便斗。黄巢输了一阵,退走少歇又战。被克用赶杀,会合义成、义武两军,相继追击。黄巢军大败,俘斩几尽。黄巢仅与数十骑,将宫室烧了逃走。一日之内,三次大捷,李克用统军入长安城。故将金宝财帛,抛弃满路,克用军士争取,追赶稍缓,黄巢遂得逃去。时李克用年才二十八岁,于诸将中年纪极小,兵势最强,破黄巢功在诸将之上,有一目微眇,军中皆号做「独眼龙」。朝廷降诏,除李克用同平章事。将巢伪相崔G,斩于市曹,枭令。诏曰:
    我太祖创业,借突厥之援以兴王;予小子遭时多艰,复借沙陀之力以破贼。黄巢肆
  为不道,使宗庙腥膻,生灵鱼肉。上天悔祸,一日三捷,李克用之功居多。其宣授克用
  同平章事。故兹诏示,想宜知悉。
  李克用得诏书,望阙谢恩,犒设军士了当。那时分朱温为见黄巢兵势衰败,已将同、华二州来诣王铎军前归降。朝廷授朱温做河东行营招讨副使,赐名做朱全忠。
  中和四年四月,黄巢收拾溃军尚数万,进围陈州,几三百余日。赵咝值苡氤蔡粽剑笮∈俸希簿С亲薄V茚Ч彩变摺⒅烊业龋允谷死蠢羁擞么Ω婕薄@羁擞没岷闲碇荨曛荨⑿熘荨①鹬菟闹菥恚安肯罗壕逋蛉耍诔轮莩窍峦妥ぁS肷腥迷谔诱剑腥冒茏摺3蔡蒙腥靡炎撸慈战馕В菹蜚曛萋啡ァN逶拢笥辏降厮侨撸瞥簿凰{了;又听得李克用大军将到,遂引兵向东北遁去。尚让将骑兵五千,进逼大梁城下,朱全忠使人告李克用求救。李克用将兵赶去,到那中牟北地名王满渡,候贼军半渡,纵军掩击,杀虏万余人,贼军大溃,尚让帅众来降。黄巢收千余人奔兖州,克用追至冤句,不及,因获巢幼子及乘舆服器符印,及所掳男女万余人,遂进军到汴州,屯军城外。朱全忠差人固请克用入城,送克用到上源驿宿顿,置酒大会。正是:
    满座金钟浮绿蚁,当筵歌拍捧红牙。
  那朱全忠排办茶饭,请李克用饮宴。酒醉后,克用乘酒使性气,说了几句大话,朱全忠心不能平。筵宴罢,从行的皆醉了。有宣武将杨彦洪密地与朱全忠商议,将车填塞了道路,遣军将上源驿围了。那李克用正在醉中,鼻鼾JJ地价睡。亲兵薛志勤、史敬思与全忠诸军格斗,郭景铢扶克用匿床下,以水沃克用面,待他苏醒后,告其事变。克用张开目,手握一张弓,走起。只见烟焰腾空,恰好得一阵大雨,雷电掣光,天地昏暗。薛志勤扶李克用帅左右数人跳过墙,突围走出,乘电光中逃去。史敬思在后拒战,为乱军杀死。朱全忠误将杨彦洪射死了。李克用与薛志勤几个缒城而下。那克用的妻刘夫人,多智略,左右走归的来告事变,夫人立斩之;阴召大将约束军士,不得噪动。次日,天明,李克用要勒兵攻杀朱全忠。刘夫人劝道:「若擅起军相攻,天下谁知曲直?莫若往朝廷告诉,则彼自无辞。」克用听从其言,移书谯责朱全忠。全忠回书道:
    前日之变,全忠初不之知;乃朝廷遣使者与杨彦洪商量。今彦洪既已伏辜,愿明公
  谅察!
  李克用即日引军还晋阳。那时有李嗣源的,乃是胡人,名做邈佶烈,本无姓,在军中骁勇无比,年才十七岁,从李克用在上源驿冲突矢石之间,略无所伤。克用收为养子,命名唤做嗣源。
  中和四年七月,李克用奉表自陈,告诉朱全忠上源驿谋杀的事。其表曰:
    臣李克用,沙陀一酋长耳。父子遭遇大唐恩眷,秉节藩方。顷仗天威,收复长安,
  使元凶授首,宗庙再安,无非皇帝陛下威断神武,臣何力之有焉。臣帅兵归镇,便道汴
  梁,朱全忠邀臣入城,馆置于上源驿,俟臣酣醉,使裨将杨彦洪等纵兵围劫,阴欲杀臣,
  为巢贼报怨。臣部下将佐三百余人,并所带牌印,一时被朱全忠乱军劫去。臣切见朱全
  忠乃黄巢余孽,阴狡祸贼,异日必为朝廷患。夫救焚者,销之于曲突徙薪之时者易为力;
  若及燎原而后扑之,则焦头烂额矣。治疽者,疗之于血气方凝之时者易为功;若及溃痈
  而后治之,则腐肉伤肌矣。臣愚,欲望圣断,遣使按问,削全忠官爵。臣愿奉诏帅本道
  兵讨之,为国家销患于未萌,诚万全之举也。臣昧死谨言,伏候敕旨!中和四年七月二
  十日,臣李克用表上。
  僖宗得克用所奏,不惟不能治朱全忠之罪,克用前后表凡八上,乃遣杨复恭奉使李克用军,宣谕圣旨。诏云:
    览卿所奏,深知卿冤。国事方殷,姑存大体,朕为卿和解,已遣使谕朱全忠矣。廉、
  蔺结友,寇、贾交欢,先国事而后私怨也。今遣杨复恭谕旨,朕深望卿慕廉、蔺、寇、
  贾之事焉!就赐金茶合二只,犒军钱五十万缗,帛五百疋。秋凉,旨不多及。
  李克用见那诏书不从起兵之请,终郁郁不平,便有攻伐朱全忠的意。八月,进李克用爵为陇西郡王。
  光启元年十月,田令孜遣那朱孜、李昌苻合军攻打河中。王重荣诣李克用处求救。克用正怨朝廷不问朱全忠上源驿的公事,练军买马,结托诸胡,议攻汴州。报重荣曰:「待吾先灭全忠。扫除此等鼠辈,如拉败叶耳。」重荣再遣人求救曰:「若待大王自关东还,吾为所虏矣。不若先除君侧小人,退擒全忠,何难之有?」李克用乃上表于朝。表文云:
    朱孜、李昌苻凶德参会,与朱全忠相为表里,欲共灭臣。臣不自救,死无所矣。已
  聚集蕃汉兵十五万,取来年大举入河北,讨平二镇。不近京城,保无惊扰。俟二镇已平,
  殄歼全忠,少雪上源驿之耻。臣昧死奏闻,伏候敕旨!光启元年十月日,臣李克用表上。
  僖宗览克用所奏,遣使谕旨和解。克用不奉诏。十二月,与王重荣合军进屯沙苑,与朱孜、李昌苻战。孜、昌苻败走;李克用进军,迫近京城。田令孜奉僖宗车驾幸凤翔。驾才离长安,而宫室生聚,悉为乱军焚掠一空。
  光启二年正月,李克用军还河中,与王重荣同写着表,奏请僖宗还宫;因子田令孜罪状,乞正典刑。僖宗皆不省视。田令孜引兵入宫门,劫僖宗幸宝鸡,从者才数百人,宰相百官皆不之知也。朱孜、李昌苻统、岐之兵,进逼车驾,金鼓之声,震动天地。田令孜迫僖宗离宝鸡,使王建将五百人,各执长剑为前驱。僖宗将传国宝授与王建,背负以从,登大敢领。李昌苻纵火烧阁道,王建扶掖僖宗从烟焰中跃过。六月,朱孜立襄王温,权监军国事。襄王遣使者到晋阳,赐李克用诏,言:「主上已晏驾。吾为藩镇所推,今已受册。」克用大怒,焚诏书,囚使者;遣使上表,移檄进讨。诏杨守亮将兵二万出金州,与王重荣、李克用共攻朱孜。
  文德元年二月,张全义统军袭攻河阳。李罕芝奔泽州,诣李克用军前告急求救。李克用遣将军康君立督马军七千人,助李罕芝攻张全义。全义诣朱全忠军求援,全忠遣丁会统兵救全义。丁会与李存孝交战,存孝败,康君立引兵还。
  昭宗龙纪元年六月,李克用大发兵,遣李罕芝、李存孝攻伐孟方立,取磁、洛二州,进取邢州。孟方立自饮药死。李罕芝还军于上党,就那三垂冈置酒,伶人奏《百年歌》,至于衰老之际,悲歌凄切,坐上有垂泣者。李存勖方五岁,在克用侍侧,乃抚髀道:「大丈夫当从少年立功名,何为悲凄于晚景邪?」克用慨然道:「此奇儿也!后二十年,必能代我战于此地也。」诸将立那方立的弟孟迁为留后,求救于朱全忠。全忠使王虔裕将甲士数百人赴援。
  大顺元年二月,李克用取云州,不胜而还。四月,张浚因杨复恭以进,复附田令孜,而待复恭疏。昭宗知张浚与杨复恭有嫌隙,特用张浚为宰相。浚每以谢安、王导自比。李克用甚轻忽之,听得浚拜相,谓诏使道:「张公好虚谈而无实用,倾险小人也。主上采虚名而相之,他日必能交乱天下。」浚听得克用这言语,深恨之。那时有赫连铎、李臣威附会着朱全忠,皆以诛李克用为请。昭宗令省台四品以上官员会议,皆以为不可发兵讨李克用。独有张浚、孔纬两个,坚欲起兵。乃下诏削夺了李克用的官爵。浚奏给事中牛征做行台判官。征听得此命,叹曰:「国家丧乱之余,无事而横挑强寇,吾见其颠沛也。」以疾辞不行。张浚陛辞日,大言道:「俟臣先除外忧,然后为官家除内患。」盖指杨复恭也。复恭听得这说,就长乐?置酒,与浚饯别。复恭把酒,劝浚尽饮。却不道:
    劝君且尽一杯酒,西出阳关无故人。
浚不肯饮,复恭却戏浚道:「相公仗钺专征,得恁地作态么?」浚应道:「俟平贼归日,方作态也。」复恭深忌之。八月,官军到阴地关。朱全忠使骁将葛从周带马军千人,密地从地名壶关夜抵潞州城下,突围入城。张浚使招讨副使孙揆赴镇,八月离晋州起行。李存孝听得孙揆将到,将马军三百人,向那长子西谷中藏伏了,拿却孙揆及中使韩归范,将槛车管押送与李克用军前。克用表孙揆做河东副使,揆道:「咱是天子大臣,兵败拿至此,分甘一死,岂能低首下心,伏事一个镇使?」克用大怒,命左右将锯解开孙揆尸首。锯不能入,揆骂道,「死狗奴!锯人当用板夹住,汝不晓耶?」乃令以板夹而锯之,至死骂不绝口。九月,朱全忠遣军围泽州,大呼李罕芝,谓曰:「张相公围却太原,葛仆射据了潞州,旬日间,沙陀无穴自藏,相公怎有生路?」会李存孝统军至泽州,选军马五百人,绕了汴军营,大呼曰:「我即沙陀来求穴的,欲得您军肉,以饱我士卒!若有肥的,可令出战!」汴军骁将邓季筠出战,被李存孝就马上活捉过来,余军大溃。存孝乘胜攻潞州,葛从周弃城宵遁。李克用授唐君立做昭义留后,李存孝做汾州刺史。存孝以不得昭义,愤怒,始有叛意。十月,官军出阴地关。李克用使李存孝将步军五千就赵城下寨。韩建使壮士三百人夜袭存孝军营,被存孝设伏兵了出战,建兵大败。存孝乘胜直抵晋州西门,张浚出马交斗,大败而走,归城闭门拒守。会存孝统军攻取绛州,张浚、韩建带轻骑逃遁。李克用遣韩归范还朝,附表讼冤。表文云:
    臣李克用,父子三代,受恩四朝。破庞勋于宪宗之朝,翦黄巢于先帝之世。黜襄王,
  存易定,使皇帝陛下,今日冠通天之冠,佩白玉之玺,臣之力居多焉。若以攻伐云州,
  为臣之罪,则拓跋思恭之取~、延,朱全忠之侵徐、郓,何独不诛?赏彼诛此,臣岂无
  辞?今张浚既已出师,则臣固难束手待尽,已集蕃汉军五十万,欲直抵蒲、潼,与浚格
  斗。若臣不胜,甘当削夺;不然,轻骑叫阍,顿首丹墀,诉奸回于芍齐酚诔
  然后自拘司败,恭俟a钺。
    大顺元年十月日,削夺官爵沙陀旧部李克用表上。
  昭宗览克用所奏,与朝廷会议,莫不惊骇。那时张浚、韩建军败,孙揆被擒,大臣深以为忧。干宁二年正月,李克用再上表。表曰:
    臣切见张浚以陛下万代之业,邀自己一时之功,知臣与朱温深仇,私相连结。臣今
  身无官爵,削夺已尽,身是罪人,漂流靡定,不敢复归藩方;且就河中寄寓,进退行止,
  伏候指挥!
  昭宗得克用表,贬张浚、孔纬远州安置;复李克用官爵,使归晋阳旧镇。二月,张浚奔华州,依韩建,与孔纬密地求救于朱全忠。全忠上表讼其冤。朝廷不得已,畏全忠凶焰,姑听自便;仍加李克用为中书令,贬浚为绣州司户。初,邢、洛、磁三州留后李存孝,与李存信俱是李克用的假子。克用偏爱存信;那存孝欲立大功,取重于克用,存信又谗谮于其间;存孝惧及祸,密地与王F、朱全忠交结。朱全忠上表,称李存孝以邢州、洛州、磁州三州自归,乞赐旌节;及会诸道军马进讨李克用。朝廷诏授李存孝为三州节度使,不许会兵攻伐。李克用围邢州,凿堑筑城以守之。邢州城中食尽,李存孝出见李克用,泥首谢罪。克用将槛车囚系以归,用车裂于牙门。
  干宁二年,王行约、李继鹏、王行瑜、李茂贞等作乱,昭宗车驾幸石门镇避乱。七月,李克用帅蕃汉军十五万迎车驾还宫。李克用驻兵华州,遣其子李存勖奉表诣行在问起居。存勖年才十一岁,使之献捷于京师。昭宗奇其状貌非常,赐酒卮、翡翠盘等,抚存勖背道:「此儿可为国家之栋梁,他日必为吾家尽忠。善自爱重!」解所佩玉带赐存勖。就授李克用为招讨使,进讨王行瑜。十一月,王行瑜自将着甲士五千人,在龙泉寨坚守。李克用攻击颇急,王行瑜走入州。克用进军,将州城围了。行瑜登城号哭,谓李克用曰:「行瑜无罪。所有胁乘
1-新编五代史平话-宋-佚名

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